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あの大震災から15年 [雑談]

昨日で阪神淡路大震災から15年。

僕はその頃、遅い正月休みの帰省で実家に帰っていて、あの震災にあった。

前日の夕方、親友が子供を連れて実家に来ていたときだった、

近くを通っている幹線道路で、まるで大型トラックが事故を起こしたような

ドンという地響きというか、突き上げるような感じの揺れが一度だけあった。

関西では滅多に地震は起きないので、あの変な揺れは

何だかとても不気味な気分だったのを今でもハッキリと覚えている。

そして、あの揺れが大震災の前触れだった。

翌朝、あの地震が起きる直前に何故か僕は目覚めた。

雨戸の閉められた夜明け前の部屋はまだ真っ暗で

何故目覚めてしまったんだろう?と思っていたらグラッと揺れが始まった。

それも尋常じゃない揺れと地鳴り・・・

僕は当時生まれたばかりの息子を覆いかぶさるように抱きかかえ

揺れが収まるのを待った。

揺れが尋常ではないだけに、タンスや吊ってある照明が落ちてくるのでは?

家の軋む激しい音、もしかしたら自分の上に何か落ちてくるかもしれない

そう思いながらも、激しい揺れになす術もなく、

赤ん坊の息子を抱きかかえて居るのが精一杯だった。

揺れは相当長く続いた・・・いや実際には数分だったのかもしれないけれど

そのときは物凄く長く感じた。

東京の会社のオフィスで震度5を体験したことがあった僕でも

この揺れは尋常じゃない、大災害になるってことが簡単に予測できた。

しかし、たまたま僕の実家のあるエリアは最も被害が大きかった

海沿いのエリアと真反対の山間部だったために、激しい被害にあうことは無かった。


揺れがおさまると、僕は直ぐさま居間のテレビをつけに行った。

しかし、山間部で電波が直接届かない実家ではケーブルテレビ接続だったため

テレビ放送は全く見ることが出来なかった。(ケーブル局がやられたのだ)

親父がラジオを居間に持ってきて音を出すが、ラジオ放送では地震があったこと

そして、市内の一部の地域では火災が起きていることしか解らなかった。

実際には被害が大きすぎて、放送どころではなく、放送局も被害の実態など

全く把握できていなかったと言うことが後に解った。

ラジオの次は電話だ。親戚や友人に電話をした。

直ぐに連絡のついた親戚や友人も居たが、電話が不通になっているところや

呼び出しをしていても、取らないところもあった。

後に、東京の勤めていた会社は僕に対して電話をしてくれていたようだが

全く掛からない状態だったそうだが、実は内側から外に向けては発信ができたし、

内側同士では通話は容易だった。

被害が一番激しい地域に住んでいた従兄弟が2人、この震災で亡くなった。

幸いにも友人たちは1人も怪我も含めて無かったことが解った。


時間が経過するにつれて、大きな被害が無かった僕の実家の地域でも

徐々にその影響が出始めた。

先ず、ガスが完全に使えなくなった。そして、次に水の出が悪くなり、最終的には

断水状態になった。幸いにも停電は免れた。

周囲のスーパーやコンビニなどで食品が売り切れ全く無くなった。

ラジオから出てくる情報によると、阪神間(神戸~大阪の間)の交通は完全に遮断され

自動車の通行も不能になっているとのことだった。

地震が起きた日から数日、実は神戸の中心から海沿いの地域で

あんな大きな被害になっていることを、実は全く知らなかった。

しかし、徐々にその被害の様子が明らかになってくるに従って

このままではダメだ、何とか東京に脱出する手立てを考えねばと思った。

僕一人での帰省だったなら、しばらくは神戸に滞在しただろうけれど

家族で帰省していたこともあって、何とか家族を東京に帰らせたかった。

そして、数日後、岡山経由の空路で東京に帰ることを思いつき

実家から車で岡山空港に向かった。

両親は僕も一緒に東京に戻れと言い、僕は仕方なく家族と東京に戻ることにした。

両親も東京にそのまま一緒に連れて帰りたかったが、

両親は神戸に居ることを選んだ。

まだ、なんとかなる。どうしようも無くなったら東京に行かせてもらうと

当時、父は言っていた。

結局、両親が震災後に東京に来ることは無かった。


岡山空港に着いた僕は、空港内で流れるテレビ放送で初めて神戸の町が

壊滅的な状況になっている映像を目にした。

そのときの胸の内の衝撃は今でも忘れない。

そして、なす術もなく東京に逃げ帰ろうとしている自分が、

何だか卑怯者になったような気持ちでいっぱいになった。


機内で新聞を貰うと、一面にはまるでゴジラ映画のワンシーンのような

メチャメチャになった神戸の町の空撮写真が出ており、

ココで始めて、震災の実態を詳しく知ることになった。

阪神高速が横倒しになっている様子や、電車の線路が分断されている様子

ビルが倒壊していること、阪神間の地域が最も被害が大きいこと

長田の町が大火災になっていること。それは戦争で空襲にあったような様子だった。


一度、家族を東京に送り届けたら、再度神戸に戻ってこようとも思った、

しかし、両親は「何とかなるので戻ってくるな」と言い、

僕は東京で普段と変わりない生活を始めてしまった。

仕事には帰った翌朝より出社した。



あれから15年・・・早いものだ。


神戸の街も大きく様変わりし、地震の傷跡を町並みから見つけることはできなくなった。

人は本当に偉大だ。

メチャメチャな町が、今では完全に復興し、みんな新しい生活を始めている。

もう、どうしようもないんじゃないと思わせられるほどの瓦礫の山であった神戸が

今では完全復活している。

その様子を見て、僕もどんな苦境に立っても、何とかなるんじゃないか

諦めることさえしなければ、必ず復活できる。

悲惨な出来事ではあったけれど、僕の中では諦めなければ必ず復活できるという

そんな考え方を強く感じさせられた。


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諦めない

必ず復活できる

そして

更に強くなれる。


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